『エッセンシャル・キリング』イエジー・スコリモフスキ

hito_revi2011-07-16


 長い沈黙を破って発表した『アンナと過ごした4日間』(08)で熱狂的な再評価を受けたイエジー・スコリモフスキ監督の新作が、中東を舞台にしたヴィンセント・ギャロ主演のアクションものだと聞いたときには大いに驚いた。そんな大作を撮ってしまうのか、と。だが昨年の東京国際映画祭で本邦初公開となった本作『エッセンシャル・キリング』は、こちらの勝手な想像など軽く裏切るミニマルで執拗なスコリモフスキならではの異色作だった。
 アフガニスタンの砂漠を偵察する3人のアメリカ兵を、洞窟に身を潜めていた男・ムハンマドヴィンセント・ギャロ)がバズーカで吹き飛ばす。彼はあえなく捕まるが、乗っていた護送車が事故を起こしたのに乗じて逃亡する。雪に覆われた森をあてどもなく、ただ生き抜くために。

 生存本能に導かれた彼の行動は、名付けるなら“エッセンシャル・リヴィング”=本質的な生存行動、と言うべきものだろうが、極限状況で生きることは何かを殺すこと。獲物を追って殺し、追ってくる者と闘って殺し、善悪を超えた自然の一部となって、ムハンマドは“エッセンシャル・キリング”=本質的な殺害を繰り返す。
 ギャロは言葉を封じられているが、独特の風貌と肉体で、人の原初の形とでも言うような主人公を見事に演じている。長髪に髭を生やし、白い防寒スーツに十字架のような血の染みを付けたムハンマドは、苦悩するキリストを想起させる。ムハンマドというその名前はイスラム教の開祖と同じで、彼もきっとイスラム原理主義の戦士なのだろうけれど、人間が自然に融け合うように、宗教も超越した世界がここでは描かれる。

 ギャロはまた崖から滑り落ち、犬に追い立てられるという身体を張った演技でダイナミズムを見せ、木の皮を齧り、釣り人から魚を奪い、女性の乳房に貪り付くという切迫した行為では笑いを引き起こす。音楽もない、水墨画のような幽玄な世界だが、何が起こるか分からないスリリングさにまったく目が離せない。
 そんな無情の旅の果てに、彼はある家に吸い寄せられるように辿り着く。「きよしこの夜」が流れるクリスマスの季節、家に一人残された女性に、彼は手厚く介抱される。彼女はろうあ者で、会話はないのだが、孤独な者同士何か本質的に惹かれ合うものがあったのか……。ひとときの休息の後、ムハンマドは再び旅に出る。もう彼にはほとんど力が残っていないのだが、人の慈愛を知り、白い馬を静かに駆る彼の姿は逞しくヒロイックだ。混沌とした世界の中のエッセンスを取り出し見せようとした、スコリモフスキの新たな試み。激しく心を突き動かされる傑作だ。

『エッセンシャル・キリング』 Essential Killing
2010年/ポーランドノルウェーアイルランドハンガリー
カラー/英語、アラビア語ポーランド語/1時間23分/35mm
監督:イエジー・スコリモフスキ
脚本:イエジー・スコリモフスキエヴァ・ピャスコフスカ
出演:ヴィンセント・ギャロエマニュエル・セニエ、ザック・コーエン、イフタック・オフィア、ニコライ・クレヴェ・ブロック、スティング・フロデ・ヘンリクセン、デイヴィッド・プライス、トレイシー・スペンサー・シップ、クラウディア・カーカ、ダリユシュ・ユジュン
配給:紀伊國屋書店、マーメイドフィルム
7月30日(土)より渋谷シアター・イメージフォーラムほか全国順次公開。
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