『あいときぼうのまち』原発の問題に立ち向かう大いなる家族の物語

あいときぼうのまち

強靭なドラマの世界に身を任せる快感! 『あいときぼうのまち』を震災と原発事故を描く社会派映画とくくり、それで足を運ぶのを躊躇している人は多いかもしれない。それ以前に、この作品がフィクション映画の常識に反して「東京電力」の企業名をそのまま出しているためにマスコミから取り上げられず、存在を知らない人のほうが多いのかもしれない。確かに作り手たちは原子力政策に強い怒りを向けこの作品を撮った。しかしその怒りは人を救いたいがためのもの。福島に次々降りかかる戦時中のウラン採掘、60年代の原発建設、そして震災と原発事故という災難を、映画はそれぞれの時代に直面した一族の人々の苦しみとして描き出して観る者をぐいぐいと引き込んでいく。誰にも届くように、大衆文化である映画の力を信じて、仕掛けを凝らした人間ドラマ。3.11で現実がドラマを超えてしまったけれど、現実をそのまま切り取るだけが3.11を伝えることだろうか。それを突破しようと表現者たちが練りに練る、ドラマの、フィクションの力がこの作品にはこもっている。

本作は福島に暮らす家族4世代を描く作品と紹介されるが、正確には少女怜とその祖母愛子、その父親の英雄とその母の芙美という5代にわたる人物を中心に進められていく。それぞれが戦争に、町を二分する原発建設に、震災と原発事故に、生活や恋愛を取り上げられては闘い、また挫折する。その時間軸を細かく交錯させることで、奇妙な反復を繰り返す一族の姿が観る者に悲しみと怒りを募らせるのに効果を上げる。脚本の妙はそれだけではない。少女・怜が震災後の東京をさまよう姿はそれだけで歴史の描写と同じぐらいの熱量を持って織り込まれるのだが、あまりにも悲壮すぎるのだ。見知らぬ男に体を売り、渋谷で出会った若者・沢田と義援金詐欺を働いては、あぶく銭よろしく豪勢な食事に使ってしまう。あたたかい家族に包まれる福島での暮らしを失い、東京に避難してきたという、それだけではない深い闇。それが何であるのか……。怜の犯した過ちにじわじわと迫るサスペンスにも映画は貫かれる。

挑戦的な映画に出演を決めた俳優たちは、みんな役にハマり胆の据わった迫真の演技を見せるが、特に魅せられるのはやはり現代のパート。悲痛な運命を呪い、地震を怖がっては東京への憎しみを募らせることで足を踏ん張りバランスを取る怜と、白いスーツの派手な出で立ちながら誰にも見向きもされない沢田。寄る辺のなさそうな若者たちは嘘の会話を交わしながら不思議と惹かれ合い、福島へと向かう。そこに広がる光景についに感情を決壊させる姿に、日本という国の窮屈さのいちばんの犠牲者は自分を殺して生きる今の若者たちだと痛感する。あどけなさと図太さを兼ね備える千葉美紅は『戦争と一人の女』(12)で、浮遊するような透明さの中に険しいまなざしを見せる黒田耕平は『アジアの純真』(09)で、本作の脚本家である井上淳一作品に参加した骨太な「同志」。時空を超え脈々と連なる壮大な物語を鮮やかに駆け抜け引っ張る存在感が頼もしい。

また、大人を演じる俳優たちには夏樹陽子勝野洋、大谷亮介というベテランが揃い、感情の機微を見事に表現してやはり素晴らしい。特に「被災地のために何か役に立つことがしたい」と愛子役を快諾したという夏樹陽子は、役でもそのままに初恋を遂げ人類愛に生きようとする大小さまざまな愛の形を見せ、静かな強さに魅了された。その愛子の少女時代を演じた大池容子もセピアがかった昭和の風景の中で不敵な表情を光らせ圧巻だった。

そんなふうに新進俳優とベテラン俳優も散りばめて様々な世代のストーリーを描くというのも、映画が幅広い層に届くように狙いを定めたものなのだろうが、それで思い出すのは昨年の大ヒットドラマ「あまちゃん」。『あいときぼうのまち』の撮影はその前年2012年のことだから偶然の一致なのだが、このふたつの作品には不思議な共通点がある。少女時代の愛子は、原発建設を巡る親たちの争いのため、想い合う健治とも遠ざかっていたが、意を決して自分から彼を誘うのに『潮騒』の名台詞を語る。それは「あまちゃん」の劇中でも使われたが、それよりもストーリーが進むにつれ「来てよ その“日”を 飛び越えて」としか聴こえなくなっていった「潮騒のメモリー」の歌詞を今や思い出させるものとなった台詞だ。「あまちゃん」も震災を乗り越え復興を目指す人々を描くために3代の母娘ほか老若男女が混じり合いストーリーが二転三転する怪物のような、しかし緻密に練り上げられたドラマを作り上げた。『あいときぼうのまち』が描くのは原発問題でありさらに困難な挑戦なのだが、途方もない現実に立ち向かうために、人が夢中になれるフィクションの力を存分に使おうという冷静な頭脳とスケールのある演出力とが両者にひしひしと感じられる。ジャ・ジャンクーが中国伝統の武侠を取り入れて撮った最新作のバイオレンス活劇『罪の手ざわり』(13)も同じだろう。

そんな作り込まれたドラマの中に、映画はこれでもかというほど原発の罪もディテールまで細かに盛り込んでいく。言葉でも、音でも。「みんな私たちのことは忘れてしまった」という怜の悲鳴は他人事ではなく自分に突き刺さる。しかしそれは今を生きる人を責めるためではなく、この先100年も200年も残る映画に歴史をありのまま刻みたいという作り手の強い思いからのものだろう。「東電」の名前を含めて。私たちは五感をフル動員させて映画を観終えてからじっくりと考えていけばいい。詳細なパンフレットも販売されている。それよりも大きな家族のドラマ、顔も知らない遠い祖先と血で繫がり合い、仲のよい家族同士でも人にはみなひっそりとしまい込む大事な思い出や秘密があるという、遠くて近い不思議な存在のことに想いを馳せれば、自然に何か突き動かされていくはずだ。


惜しむらくはこれほどに映画的表現を駆使した傑作が、なかなか世間に浸透していかないことだ。封切館であるテアトル新宿での上映は、一時は打ち切りの話も出つつ口コミの力で巻き返して5週続き、7月25日(金)まで15:55からの1回上映中。「東電」云々で逆に話題を呼んでいるが、単純なメッセージ映画だと思われるのもこの映画には合わずもったいない。ぜひ劇場で観てあなたの言葉で伝えていただきたい。

『あいときぼうのまち』2013年/日本/カラー/DCP/ドルビー5.1ch/126分
出演:夏樹陽子 勝野 洋 千葉美紅 黒田耕平 雑賀克郎 安藤麻吹 わかばかなめ 大谷亮介 / 大池容子 伊藤大翔 大島葉子 半海一晃 名倉右喬 草野とおる あかつ 沖 正人 / 杉山裕右 里見瑤子 笠 兼三 なすび(声の出演) 瀬田 直
製作・エグゼクティブプロデューサー:小林直之 製作・プロデューサー:倉谷宣緒
監督:菅乃 廣 脚本:井上淳一 撮影監督:鍋島淳裕(J.S.C) 照明:三重野聖一郎 録音:土屋和之
美術:鈴木伸二郎 衣装:佐藤真澄 編集:蛭田智子 音楽:榊原 大 音響効果:丹 雄二
監督補・VFXスーパーバイザー:石井良和 スタイリスト:菅原香穂梨 ヘアメイク:石野一美 VFX:マリンポスト
製作:「あいときぼうのまち」映画製作プロジェクト
オープニング曲:「千のナイフ(作曲 坂本龍一)」 挿入歌:「咲きましょう、咲かせましょう(唄 夏樹陽子)」
撮影協力:いわきフィルム・コミッション協議会 一般社団法人いわき観光まちづくりビューロー
配給・宣伝:太秦
Ⓒ「あいときぼうのまち」映画製作プロジェクト
公式サイト
2014年6月21日(土)よりテアトル新宿ほか全国順次公開